<息で自らの心をととのえる>

 丹田呼吸法というのは今から2500年以上前、お釈迦様が実践された呼吸法から始まったと考えられ、それから主に東洋において、長い年月をかけて引き継がれてきた呼吸法です。

 私達人間は一人の例外もなく呼吸をして生きています。丹田呼吸法では吸うことよりも吐く息に意識を高めます、出る息にこころを込めれば息は自然と体の中へ入ってきます。


<丹田呼吸とは?>

 東洋全体での動きの中で発生し、現代に伝わっている丹田呼吸ですが、日本国内において丹田呼吸という用語は藤田霊斎師の「実験修養 心身強健之秘訣」(1908)によって初めて用いられました。それ以前の文献において、「丹田」という用語は存在しますが、「丹田呼吸」という用語は確認できていません。しかし、藤田霊斎師は丹田呼吸法はオリジナルではなく、古来からの呼吸法・調息法を体系化したものであると自身の著書で述べています。

<丹田呼吸の定義>

 藤田霊斎師は明治時代に多くの人に実践できるよう丹田呼吸を体系化しましたが、その集大成を分かりやすく要約した書物が昭和30年に発行された「身心改造の要諦」です。そこでは古き格言「息は臓を錬り 意を専らにし 精を積み 神に通ず」が引用され、呼吸・息の目的がまとめられています。そして、その目的は「上虚下実」という姿勢において達成されると書かれています。「上虚下実」という用語も藤田霊斎師の造語ですが、現代では坐禅などの姿勢を表す言葉として広く使用されています。「上虚下実」というのは上半身の力を抜き(リラクゼーション)、下腹部を中心に下半身の力が充実した姿勢の事を指します。この藤田霊斎師の主張する息の目的は、その息法のルーツである白隠禅師や貝原益軒らが主張する錬丹術や呼吸法と矛盾しません。丹田呼吸は上虚下実の姿勢で呼吸する事を指します。

 現在の言葉で言い換えるならば、➀身心共にリラックスした状態(上虚)で②瞑想し、③呼気性腹圧呼吸(下実)を特徴とする息法と言えます。

 これらの3つの要素は丹田呼吸を成立させる上で外せない要素です。しかし、現在において丹田呼吸という言葉は様々な使われ方をしています。例えば、腹圧をかけた呼吸、下腹部に力を入れる呼吸が丹田呼吸と言われる事がありますが、たとえ腹圧がかかった呼吸であったとしても上半身が緊張してしまう様な呼吸法は丹田呼吸とは言えません。また、丹田を意識して呼吸するのが丹田呼吸とされる場合もありますが、腹圧がかからない呼吸も丹田呼吸とは言えません。逆に言えば武道や芸道、スポーツなどで上記の条件を満たしていればそれは丹田呼吸と言えると考えます。 

<丹田呼吸法の歴史>

 古代インドの時代、釈迦族の王子として生まれたお釈迦様は29歳の時に重大な決心のもとに出家して苦行生活に入りました。彼は生・老・病・死の苦悩から人類を救済することを志し、あらゆる難行苦行をして、わが肉体に苦難を強いる修行を6年間続けました。

 しかし肉体は極限までに、やせ衰えて衰弱しましたが、悟りは一向に開けませんでした。ある時、菩提樹の木の下で瞑想を続けているときに、「吐く息を吐く息として知り、吸う息を吸う息として知る」という呼吸法に目覚めたのです。これが「アナパーナ・サチ」と呼ばれるものです。

 お釈迦様のこうしたお経は三蔵法師によって中国へもたらされて、さらに遣唐使によって写経され、日本へと伝わったのです。こうして東洋の叡智であるお釈迦様の呼吸法が仏教とともに伝承されることになったのです。

 この呼吸法は江戸時代の中ごろ、臨済宗の中興の祖と云われた白隠禅師によって脚光を浴びることになりました。白隠さんは厳しい修行によって禅病に罹り、これを克服するために京都の山奥に住む白幽仙人から丹田呼吸法を伝授されて、「内観の秘法」「軟酥(なんそ)の法」を確立して、禅病に苦しむ多くの修行僧たちを救うために「夜船(やせん)閑話(かんな)」という丹田呼吸法の本を著したのです。彼は駿河の国の原(現在の沼津市)にある松蔭寺で布教に努めましたが白隠禅師を慕って全国各地から修行僧が集まり過ぎて、宿泊する寺が無くなったという言い伝えが残っております。

 「駿河には 得難きものが二つある 富士のお山と 原の白隠」と崇められたそうです。

 このようにして伝えられた呼吸法や修行法は、明治になり調和道丹田呼吸法の創始者、藤田霊斎師によって、多くの人が実践できるよう体系化されました。

 調和道丹田呼吸法は、二千数百年に亘り、修行者、武道家、芸道家たちの叡智と伝統により培われた呼吸法を、年齢や性別、国籍を問わず、どのような宗教や信条であっても開かれた形で実践できるよう体系化された呼吸法です。

<調和道丹田呼吸法の歴史>

 調和道丹田呼吸法は、真言宗智山派の藤田霊斎師が厳しい修業の末に明治40年に万人の健康法として「息心調和法」の名称で、千葉県千葉町(現 千葉市)に道場を開いたのが最初です。

 藤田霊斎師はその後、2度にわたる真冬の高尾山や高野山への参籠を経て、呼吸法の基本である「完全息の六原則」等の奥義を極めました。昭和2年になると「社団法人調和道協会」の認可を得て文字通り国民健康法として一般に広まりました。

 又、昭和3年には創立20周年を機に協会としてハワイ伝導にも着手して、道祖が逝去された昭和32年まで、国内だけではなくハワイにおいても調和道の呼吸法が行われていました。

 道祖の意志を継いで二代目の会長として就任したのは医学博士の村木弘昌氏です。村木会長は呼吸生理学の研究に力を入れて、医学的見地から、より安全で、老若男女、病弱者にも受け入れられる健康法としての道を模索し、息法体系の再編と改善を行いました。活動拠点も本部だけではなく、関西、名古屋、新潟にも開設して、マスコミ業界からも注目を浴びるようになりました。又、村木会長が当時の中曽根総理に東京谷中の全生庵にて丹田呼吸法を指南したという話は現在まで伝えられております。

 平成2年になると第3代会長として帯津良一医学博士が就任しました。帯津会長は丹田呼吸法を「西洋医学」だけではなく「ホリステック医学」の立場からも究極の養生の道として捉え、調和道丹田呼吸法の一層の普及に努めました。

 平成19年7月に聖路加国際病院名誉院長の日野原重明医学博士が第4代会長に就任すると、同年11月に日野原会長のもとに多くの同好の士が集まり「調和道創始100周年記念」が上野の精養軒にて盛大に挙行されました。

 調和道協会は平成24年4月に公益社団法人に移行した後、平成30年に解散しましたが、その灯を絶やさない為にNPO法人丹田呼吸法普及会が発足されました。

 連綿と受け継がれてきたその呼吸法は、現代においても深刻なストレス社会に対応した画期的な身心健康法として多くの注目を浴びております。

<特徴>

 一般に、腹式呼吸法では、下腹部に力を入れたり、腹圧をかけたりします。しかし調和道の丹田呼吸法では「いきみ」や「りきみ」による弊害を防止するために、上半身の力を抜いたリラックスした状態を創りだすことから入ります。

 そして、実修を重ねることにより、上半身がリラックスした状態で下腹部に適度な腹圧のかかる充実感を感じることが出来るようになります。こうした身体感覚を調和道では「上虚下実」と表現しています。

 この「上虚下実」の状態で呼吸法を行うと腹部にある太い下大静脈が収縮を繰り返し血流やリンパ球の流れが大幅に促進され、自律神経の調節もスムーズに行われるようになると言われています。

 当会は、日本において長い歴史をもつ丹田呼吸法を、基礎から中、上級の呼吸法へと無理なく進んでいけるようにプログラム化された優れた体系をもっていますので初心者でも無理なく実修出来ます。